黒玉子のブログです。

【新卒ニート】新卒1ヶ月で退職しました。教員目指してます。

教育実習を振り返って(ガチ)3000字くらいある

教育実習での自分のねらいについて振り返る。私は教育実習でのねらいが二つあった。一つ目は「人に何かを教えること」が向いているかどうかであった。

 

まずこれについて振り返っていこうと思う。結論から言うと向いている、向いていないかどうかは分からなかったが、人に何かを教えることがとても楽しかった。4週間という短い間だったが毎日が充実して過ごせていたからだ。私の「向いている」とは上手く授業が出来て、完璧に近い授業を今の私ができることだと思っていた。

 

しかし、人生で初めて高校生の前で保健や体育の授業をするので上手くいくはずなどなかった。指導教官の先生がおっしゃっていたことが忘れられない。「はじめから上手くいくなら教育実習などいらない」と。この言葉を聞いたときに私の考えていた「向いている」とはおかしいことなんだと感じた。この言葉を聞いて私は「向いている」について考えみた。

 

私の考える「向いている」とは長い教員としての生活をする上でお金はあまり稼ぐことができないし、プライベートの時間も取ることが出来なくなるが、3年間教育した生徒が心身ともに成長し、感謝されることを生きがいとして人生を過ごせるかどうかである。基本的に私が教育実習で体験した、ほぼ12時間労働で、部活動指導や事務作業をこなしながらその中で楽しさを感じることができる先生を長い人生の中でずっとできるかどうかが「向いている」かどうかだと考えた。

 

正直、教育実習生だけが毎日の授業で指導案をかいて、担当教官に添削されながら、寝る時間もほとんど無く、心身共に追い込まれる状況の中、私はこの状況はとても辛かった。もう早く終わってくれと何度も何度も思った。しかし、生徒に授業をして、楽しかったや、また受けたいなど肯定的なことをいわれることはとても嬉しかった。そして、実習最終日には担当クラスの生徒からメッセージ入りの色紙、部活動の生徒にもメッセージ入りの色紙を貰った。これもとても嬉しかった。これまでとても辛い実習生活を行なっていた私が全て報われた気がした。だがこれはあくまで4週間という期間でしかも教育実習生という立場で生徒とも距離や歳が近いからこそ感じることができたことだと感じた。もしも私が教員になったら三年間もこの瞬間も待てないと思う。4週間でさえギリギリ耐えることができた私なので三年間も耐えることはできるのだろうかと考えさせられた。私の中ではあまり向いていないのではないかと思えた。

 

しかし、部活動の顧問の先生や保健体育の先生方から「おまえは教員に向いているよ」と最終日に言われた。驚きが隠せなくて、思わず理由を聞いてしまった。理由は「勉強や運動が出来ない生徒の気持ちをとても理解している」「授業で運動する楽しさや君の明るい性格やポジティブな考え方はとても良いものであり、これからの教育にとても向いている」「生徒や教員の先生方とコミュニケーションと取るのか上手く愛されるキャラで一緒に働きたい」というものだった。

 

私は向いていないと思いながら教育実習を過ごしていたので嬉しかったと同時にとても評価されていたことに驚いた。私の中では向いてないと感じていたのに周りからでは向いているとなっていてよく分からなくなった。

 

私は学生スタッフで大学一年生に対してコミュニケーションの授業を2年間教えており、その中で責任者にもなることができ、人と関わることに関しては自信を持っていたのでその能力が評価され、それが教員にも向いていることだと気づくことができてよかった。否定しないで人と関わり、その人の能力や私に対して素で接しやすくするようなコミュニケーション能力を大学生活で取得できたことは私にとって大きいものであることが分かった。

 

結局、向いている向いてないは、私と周りの人とギャップがあった。これから社会人になり、その会社は向いていなくて、そこから教員になり、生徒を教育したいという気持ちになるのかもしれないと感じることができた教育実習であった。理由は授業することが楽しいことと私の能力は教員向きなのかもしれないからである。
 

 

教育実習のねらいの二つ目を振り返っていこうと思う。二つ目のねらいは「教員の働き方が私に合っているのかどうか」である。一つ目と少しかぶっている部分はあるがここでは教員という職業の考え方が私に合っているかどうかを重点において考えた。

 

イメージではあるが保守的な考え方や古い考え方をしている人が多いと予想していった教育実習であったが予想通りの結果だった。

 

私が一番良く思わなかったことは周りの人がこうやってやっているから貴方もこうやってしなさいと言われたことだ。周りと合わせて一緒にしなさいという考え方があまり好きではない。

 

生徒に対しては自分の意見や考えを持って行動しなさいと言っているのにも関わらず教員は周りに合わせて自分というものを捨てて行動していたことに驚いた。担当教官の先生から「生徒は教員を見るプロ」であると教えられた。少なくとも生徒は子供であり、子供は大人を見て成長していくと思う。その中で模範であるべきの先生が言っていることとやっていることが違っていては模範にはなれないのではないかと思った。

仮にも先生の言葉を引用するならプロである生徒に見過ごされているのではないかと思った。周りに合わせることが悪いことでは無いと思うがあまりにもその場面が多すぎた。教員という職業ではこれが当たり前であるならば私には合わないのではないかと思った。

 

私は部活動でラグビーフットボールをやっており、県でベスト4に入るくらいのそこそこの強豪チームに所属していた。その中で当時高校生であったが周りに合わせて同じようなプレーをしては先生の目に留まるわけなく埋もれてスタメンや試合にすら出して貰えないような環境であった。そこから自分というものを出すことの大切さを学ぶことができた。

 

また、ラグビーフットボールというスポーツが個性を大切にするスポーツだったからなのかもしれないが個性を伸ばして自分だけの強みをもって、周りに流されることなく意見を交換しあうことでより良いものにしていくことを学ぶことができた。

 

その考えが良いと思っている私かしたら偉い先生が何か間違っていたことや意見が合わないときに自分の意見も言って、「周りはそうですが私はこう思うのですがどうですか」と言えるような環境が良いと思っている。相手を否定することなく一つの意見として意見交換すればよいものなのに偉い先生だからと鵜呑みにするのはなにか違うのではないと思っ

た。

 

私を人として育ててくれた母校がこのような考え方であったことがとても残念だった。担当教官がそのような考え方であっただけかもしれないが少なくとも私はそのような人から教育を受けたくないと思った。

 

とても専門的な勉強をして、何年受かるか分からないような採用試験を受けて、受かるかどうかも分からない現在の教員の考え方は私には合わないと思った。

 

この二つのねらいを私は教育実習中に意識して過ごせることができた。社会人として、就職するのが正解なのか、教員を目指してたくさん勉強して、受かるか分からない試験を受け続けて不安定な生活をするのか迷っていた私にとって良い教育実習であった。社会人として就職して生活していったうえで教育者として中学生や高校生に教育をしたいと思ったらそこから努力して教員になろうと思えた教育実習であった。